遺書についての覚え書き

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①の遺書この遺書は山名正太郎「日本自殺情死紀」より抜粋したもの。紹介文には「明治42年「成功」が流行語をなしていた当時、大阪某商店小僧の自殺」とだけあり書き手が死を選んだ背景には触れていない。そこで、文中の単語と数冊の本を手がかりに死の背景を推測してみた。

(遺書本文はこちら)



ここで言う小僧とは商点の雑用や使い走りを任される少年を指す。貧しかった時代においては児童労働は珍しくなく、働く子供たちの中には平均十歳前後から親元を離れ商人や職人の家に住み込みで働く者も多くいた。そうすることによって、技術やノウハウを身につける職業訓練の一種でもある。


衣食住の面倒は主人に見てもらえるが17、8歳ぐらいで昇格するまでは無給である。こうした丁稚制度の起源は鎌倉時代にさかのぼると言われ江戸時代に盛んになった。明治時代に入ると通勤制を採用する店も現れるが、あくまでもそれは大手中心であり、以前のように住み込みで働くスタイルも根強かった。


また、学校制度の開始に伴い小学校を卒業した者を雇う店も増えていき、後述するように大正時代には学卒者の採用が定着していく。ただし明治末期までは、家庭の事情により小学校に通うことができずに働かざるを得なかった子供が多くいた。


ちなみに、この少年の経歴については記載がなく学卒者か否かは不明である。


いくつかの資料の内容をまとめると、小僧達のストレス要因は、拘束時間の長さや不十分な食事、主人との人間関係や将来の不安に集約できる。


1937年(昭和12年)に出版された「商業使用人問題の研究」(井上貞蔵著 千倉書房)には、

「大阪市が薬業商店員の希望を聴取したるにあまり多くの回答は得なかったが不満は大抵食物の粗悪、給料の僅少、就業時間の長いこと、上役の酷使、将来の不安、」


という一文がある。こうした状況は、遺書が書かれた明治末においてもさほど変わらないと見える。


1912年に出版された「丁稚制度の研究」(丸山幹治 政教社)においても売上金の使い込みや持ち逃げといった犯罪行為が、通勤制度の店員たちよりも住み込みで働いている店員たちに多いことを指摘した上で、


「極端なる生活の束縛、過度なる日夜の労働、しかして報酬の不安」な環境が原因であるという。そして、それと並んで「三度の冷飯、一杯の味噌汁、一切れの漬物」と祭日に鮭の切り身が添えられる程度の粗末な食事も大きな要因としている。


非行の走りは主人の目を盗んだ飲食なのだ。そもそも、育ち盛りの青少年をこきつかっておいて、粗食で我慢せよ、というのが無理な話じゃなかろうか。


この遺書を書いた少年もこのような境遇に負けじと「奮闘」したに違いない。「自殺情死紀」にもある通り成功という単語は当時の流行語である。もっとも、 E・H・モンキンスの「立身出世の社会史」や竹内洋の「立身出世主義」などの本によればこの言葉は明治30年代から流行していたようた。彼も、成功を夢見る者の一人だったのだろうか?


ところで、「立身出世主義」には、他にも明治後半の世相に関して興味深い記述がある。要約すると以下の通りである。


明治30年代後半から、銀行や財閥系の大企業で「学校出」の採用が行われ始めたという。それまでは子供の頃から下積み生活を送ってきた人々が主だったのに、ジョジョに学卒者が台頭していくのだ。

そして大正時代になると大企業を中心に学卒者の定期採用は一般化する。こうして、 台頭勢力が多数を占めいった。どれくらいの学歴をもって「学校出」というのかは、時期によって異なるようで、同書の170ページには


「さらに学校出が多くなると、尋常小学校卒業者や高等小学校卒業者だけでなく中等学校出身者も「子飼」とされ、専門学校出以上が「学校出」とされる。子飼と学校出の分割線が上がっていく。」


とある。しかし、なんにせよ明治の後期から大正にかけて学歴重視の風潮が社会を覆っていったことは間違いない。書き手が自死した明治42年は丁度その過渡期と言える。

それを頭に入れてこの遺書をもう一度読んでみると目に留まるのは


熟々思ひ見れば、世は學問と金錢のある人の天下にて、


という一文だ。つまりこの遺書はこう言っているのではないか?今まで自分はいかに辛くともいつかは成功することを心の支えに頑張ってきた。ところが周りを見渡せば自分のような丁稚よりも学のあるものを選び重用しているではないか。今までの自分の頑張りは一体何だったのか、と。


実際には、小僧時代から下積み生活に耐えてきた叩き上げが実権に握ったところもあったらしいが、 彼には、そんな風に冷静に周りを見回す余裕すらうせていたのかも知れない。


もちろん、私がここに書いたことは、本をヒントにした推測であるから正しいのかどうかは分からない。しかし、努力や困難を乗り越える物語を愚直に信じて重ねてきた我慢がついに限界に達する心の軌跡を遺書から感じとることができる。


如何に努力や克己心が大切だと言われても、疲れというものはどんどんたまっていく。生理的に積み重なった疲労は、いつしか心身を蝕み生きる気力を奪っていく。我慢と忍耐が限界に達したき少年は死を選んだのだ。

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